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| 2006年の夏の家族旅行(妻、次男Y、3男Dが参加。長男K欠席。)は、安近短を前提とした選択肢の他はなく、思案の結果、自家用車で若狭・丹後・但馬をめぐる1泊2日の旅となりました。金もヒマもない小市民(公務員)としては、致し方ありません。 といっても、訪問地はわが家の「趣味」にあったところとなりますから、自ずと、特色あるところとなりました。 ひとことでいえば、テーマは歴史と鉄道です。 下の目次をご覧いただければ、何を「観光」をしてきたかは、おおむねおわかりいただけると思います。しばらくおつきあいください。
下の地図1は、旅行の全行程図です。 |
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| 第1日目 岐阜−敦賀−三方−舞鶴−宮津−城崎(泊) 行程 293km 第2日目 城崎−余部−宮津(天の橋立)−京都−岐阜 行程 387km 合計 680km |
| 1鳥浜貝塚・若狭三方(みかた)縄文博物館 | このページの先頭へ | |
| 日本史クイズ「原始〜古墳時代」編で、ずっと「縄文時代から弥生時代への人々の暮らしの変化と植生」を追究し続けてきたので、安近短の旅行の候補地には、真っ先に、福井県の鳥浜貝塚があがりました。(妻も息子たちもそんな貝塚は知りませんでしtが、父ちゃんが強引に説得しました。(^_^))
この小旅行記の1では、福井県(若狭の国)の三方五湖(みかたごこ)のそばにある、鳥浜貝塚とその出土品を展示するために作られた若狭三方縄文博物館を紹介します。
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| @ 鳥浜貝塚の場所 | このページの先頭へ | |
| 鳥浜貝塚は、のちに青森県の三内丸山遺跡が発見され、そのスケールの巨大さが知れわたるまでは、縄文時代の遺跡としては、文句なく最高に貴重な存在でした。 鳥浜貝塚の場所は、福井県の若狭湾沿岸にある三方五湖のひとつ、三方湖の少し南にあります。下の地図2「三方五湖と鳥浜貝塚・若狭三方縄文博物館」中のAの場所です。@の場所には、現在若狭三方縄文博物館が立っています。 三方湖は、北陸道の敦賀インターチェンジの西南西20km程の所にあります。敦賀からは国道27号線で30分ほどです。 三方五湖や常神半島など、衛星写真を見ておわかりのように、現在でもなお、風光明媚で自然に恵まれた所です。 |
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| A 鳥浜貝塚の意義 | このページの先頭へ | |
| では、鳥浜貝塚の意義は何だったのでしょうか? それは、貝殻・骨片・土器片・石器はもとより、普通の遺跡ではほとんど出土しない木片やその他の植物性の有機物が大量に発掘されたことでした。 木やその他の有機物(植物性遺物)は、土中に埋没しても酸化(腐敗)・分解が進んでしまい、通常は、何千年もあとから発掘することなどできません。 しかし、この貝塚の場合は違っていました。 下の地図4「鳥浜貝塚調査地域図」をご覧ください。 この貝塚は、その全体が川底またはその周辺の湿地帯の地下、海抜0〜−3mのところに埋没していたため、それが幸いしました。つまり、遺物が丸ごと水につかっていた状態になっており、空気に触れて酸化することがなかったため、木やその他の有機物が腐らずに残ったのです。 その象徴が1981年の第6次調査で出土した、丸木船です。 つまり、鳥浜貝塚の意義は、そこから縄文時代人が残した大量の木製品などの有機物が出土し、これによって彼らの食生活などの生活全体の様子が具体的に判明したことにありました。 のちに、鳥浜貝塚は、「縄文のタイムカプセル」と呼ばれました。(もちろん、調査にたずさわった方々の資料保存に対する努力があったことが、この実現につながったことはいうまでもありません。) |
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| B 鳥浜貝塚と若狭三方縄文博物館 | このページの先頭へ | |
| 前置きはこのくらいにして、旅行記なんですから、自分で撮影してきた写真を見せなければなりません。 もちろん、上でも説明したように、貝塚の発掘が行われた場所は、現在では概ね、整備された高瀬川とはす川の「合流点」の下となっていますから、貝塚そのものを見ることはできません。
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| 現在の高瀬川とはす川の合流点。この一帯が鳥浜貝塚です。 貝塚発見のきっかけは、台風による出水で高瀬川の護岸が崩れ、その復旧工事のために一帯が掘り起こされたことによるものでした。 1962年7月から1986年1月までの間に、10次にわたる発掘調査が実施されました。 これにより、東西約100m、南北約50mの広さの遺跡が確認されました。 写真中央に見える巨大な人形が、貝塚跡の目印です。 (撮影日 06/08/11) |
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| 貝塚から発見された膨大な資料は、当初は、近くの旧小浜水産高校の廃校舎に仮に置かれるなど不安定な時もありました。 しかし、福井県と地元三方町の資料保存の努力は発掘調査と同時に続けられ、1982年には、郷土資料館(三方町)と福井県立若狭歴史民俗資料館(小浜市)が開館し、鳥浜の資料は立派な保管場所に収められました。 写真は縄文時代人の人形のモニュメントと貝塚発掘の記念碑。 (撮影日 06/08/11) |
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| 一方、研究にたずさわった方や地元からは、「鳥浜の出土物は地元の鳥浜で」という声が高まってきました。 この声をうけて、1993年から博物館の建設計画がスタートし、鳥浜の北西500mほどのところに、この若狭三方縄文博物館が開館しました。 2000年4月のことです。 写真は、はす川河口の東側から見た、椎山丘陵と若狭三方縄文博物館。 手前の水田と博物館の間に、はす川が流れています。 博物館を中心に周囲は、縄文ロマンパークとして整備されています。 (撮影日 06/08/11) |
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| 博物館本体。館長(初代)は、梅原猛さんです。 | ロマンパークお祭り広場のモニュメント。 |

| 鳥浜貝塚で縄文時代人が生活していた時代は、現在よりも三方湖の湖面がさらに南に広がっていたと思われます。最も暖かかった今から6000年前頃の「縄文海進」の時代には、湖面はかなりの広がりを見せていたでしょう。 右の図は、森川昌和前掲書P92から作成した縄文時代の三方湖周辺の湖沼・海岸線の推定図です。 Aの鳥浜の人々は、西から続く椎山丘陵の南東端に村を構え、食料の残渣や生活廃棄物を東側の湖沼に捨て続けました。これが貝塚となったわけです。 その後、海面の低下や上流からの土砂の堆積によって、湖岸線は北へ下がっていきました。しかし、かわって高瀬川やはす川の流れがその上を流れ、貝塚全体が湿地帯の下に封じ込められることになったのです。 縄文時代というと、ずいぶん以前は、縄文時代人は、狩猟の生活が基本で、定住せずに、住居を移動するという固定したイメージがありました。 しかし、事実は、縄文時代人は、千年単位の長い期間で、住みやすい場所に定住し、「ムラ」を作って生活していたのでした。 これは、より大規模な三内丸山遺跡の発掘によって、今では、普通の人の常識になりました。 |
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| C 若狭三方縄文博物館の展示物 | このページの先頭へ | |
博物館の中には、1985年の調査ではぎ取って運ばれた本物の地層が展示されています。これは、この博物館で初めて採用された方法で、発掘現場の臨場感を、博物館に再現する新しい展示方法です。
下の写真はその地層の一部です。 地層の年代分析によって、貝塚にいつ頃の時代の遺物が多いかがわかります。 鳥浜では、古いものでは、今から1万2000年前ごろの縄文時代草創期からの遺物が見られます。 7000年前から5000年前にかけて、人々はこの遺跡に定住し、その廃棄物によってぶ厚い貝塚が形成されました。今から5500年前、鳥浜には5〜6戸の竪穴住居があり、30人前後の人が暮らしていたと推定されます。 しかし、今から5000年前、前期の終わりごろには、この村を大規模な自然災害が襲い、背後の椎山丘陵が崩れました。おそらく川や湖の様子も変化して、この場所には人が住めなくなってしまったという分析がなされています。(展示パネルの解説より) |
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| 「父さん、これ何?マンモスの死骸?」と思わず次男Yがつぶやきました。 いいえ、違います。 これは、埋没していた、当時のスギの木です。 気温の変化によって、鳥浜貝塚の周囲の植物の様子も、いろいろと変化しました。(詳しくは、上の時代区分図を見てください。) ブナ・ナラ・クリ、照葉樹林についての説明は、【縄文と弥生、日本の地域差を考えるシリーズ2】 |
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| 出土した丸木船を参考にして作られた復元丸木船。原料となった木は、スギです。火で焦がしながら、削りました。 | 石錘。魚をとる網に使う石のおもりです。これは、1000点以上も出土しました。かなりの量の網が使われていました。 |
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| 出土した磨製石斧。磨いた石の斧です。土掘りにも使いましたが、木材加工にも使いました。 | 磨製石斧を図のように使えば、丸木船の内側を削る道具となります。 |
| 1981年の第6次調査では、丸木船がほぼ完全な形で出土しました。これは、現在に至るまで縄文時代中最も早い前期中頃のものとされています。 鳥浜貝塚からは2艘の丸木船が、また、地図5のBの場所(鳥浜の西、500mの三方湖沿い)のユリ遺跡からは4艘が発見されました。その構造から見て、いずれも外洋航行用ではなく、内水面航行用と考えられています。 1戸で1艘とは断言できませんが、集落にはかなりの数の丸木船があり、人々は、三方湖周辺の湖沼で、海や川の魚をとって、重要な食料源としていました。 この地域の縄文時代人は、森の狩人・採集生活者という面と同時に、海の狩人・採集生活者という面も強くもっていたのです。 人々は、周辺の湖水では、フナ・コイ・ウグイ・ナマズ・ハスを獲り、海へ出ては、マグロ・ブリ・カツオ・イワシ・サバ・タイ・フグなどを獲っていました。 |
| D 糞石と千浦美智子さん | このページの先頭へ | |
| 下の写真は、何かわかりますか? |
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| これが、かの有名な?糞石、つまり、当時の人間のウンコの化石です。鳥浜貝塚で大量に発見されました。その数は3000点以上にのぼります。 糞石はすでに調査の最初の段階から発見されていましたが、研究が進むのは、1975年の第4次調査からです。 その理由は、この時に糞石が大量に発見されたことと、もうひとつ、千浦美智子さんという一人の若い女性研究者がこの糞石の研究に熱心に取り組んだからです。 鳥浜の紹介の最後は、糞石と千浦さんの話で締めくくります。 千浦さんは、ちょっと異色の研究者でした。 東京の高校を出たあと、カナダ留学を希望し、トロント市の高校に編入したあと、トロント大学の人文学部に入学しました。ここで考古学を専攻し、その当時日本ではまだ行われていなかった研究方法を学びます。それは、ウォーター・フローテーション法と呼ばれ、いろいろな目の大きさのふるいを使って発掘した土や資料をふるい分けて研究する方法でした。 彼女は、大学院を出たあと、東京に戻り、一時文化庁の仕事を手伝ったあと、国際基督教大学のキダー教授の考古学研究室の助手となりました。1974年、27歳の時です。 その翌年、鳥浜の調査に参加したのです。 彼女は、貝塚の泥をステンレス製のふるいにすくい、水をかけて洗って微細な遺物を拾い上げる調査を担当していた時、大量に出現する糞石に興味を持ちました。 そして、この時点では、日本ではまだ誰もやっていなかった、糞石に含まれる花粉や種子から原始人の食生活を再現する研究に着手しました。それまで他の研究者にはあまり目にとまらなかった糞石が、彼女によってスポットライトを浴びることになったのです。 彼女はまず糞石、つまり、ウンコの形状に名前を付けます。 「ハジメ」(排泄の時の先頭部分のうんち)、「シボリ」(同最後の部分)、「バナナ」(中間の湾曲した部分)、「チョク」(中間のまっすぐな部分)、「コロ」(固いころころしたやつ)、「チビ」(小さなバラバラのやつ)。 まあ、このネーミングを聞いただけで、千浦さんの人柄が分かりそうです。 正式な分類ではないそうですが、固まる前に踏まれてつぶれたうんちは、「フミクソ」、火にあぶられた痕跡のあるものは、これはわかりますね、もちろん「ヤケクソ」と呼んだそうです。愉快愉快。 ところが、ことはそう簡単ではありませんでした。このころの分析技術では、人間のウンコと犬などのウンコを明確に区別する方法がなかったのです。 彼女は、愛犬と同じものを食べて、ウンコがどう違うかを比べるという「比較研究」までおこなって、真理に迫りました。
しかし、千浦さんは、鳥浜で糞石の研究に着手されてから3年目、31歳の時(1978年)に娘さんを懐妊されます。しかし、この時すでに、結腸癌に冒されていました。その後手術による摘出も甲斐がなく、癌は、脊椎や肺に転移し、1982年10月、35歳の若さで帰らぬ人となりました。 千浦さんが初めてスポットライトをあてた研究は、縄文時代人の食性の研究を大きく進めました。 鳥浜米塚出土の糞石の多くは、現在も、福井県立若狭歴史民俗資料館に保存されています。
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