| 世界史クイズ集 |
| 二つの世界大戦1 |
| 番号 | 掲載月日 | 問 題 |
| 1003 |
03/03/28 | 右の?の部分をクリックしてください。これは、1920年代のドイツのマルク紙幣の札束です。さてこの札束は総額いくらでしょうか。 |
| 1002 |
01/10/21 | 右の?の部分をクリックしてください。ある文書の写しが現れます。これは何でしょう。(但し、文書の背景の模様はその文書のオリジナルではありません。) |
| 1001 |
01/04/22 | 1942年から43年にかけて、第二次世界大戦のドイツとソ連の命運をかけた戦いが展開されました。スターリングラードの戦いです。この戦いではソ連軍は最終的に勝利を収めますが、公式発表で、ソ連軍死者は47万9千人に登りました。この数字のうち、1万3500人分は、ちょっと信じられない理由で殺された将兵の数です。さて彼らは何故、殺されたのでしょうか。 |
<解説編>
| 1001 スターリングラードの戦いのソ連将兵犠牲者のうち13500人は何故殺された? |
| この問題は、あまりいい質問の方法ではありませんね。なんじゃこれは、と思われたかもしれません。 2001年4月21日に見た映画「スターリングラード」の冒頭のシーンが印象的で、それが単なる映画の作られたシーンなのか、事実を反映したものなのか。確認した結果が、この問題となりました。 そのシーンとは、・・・。 ソ連軍将兵がドイツ軍陣地に突撃をしますが、部隊に唯一ある機関銃は、戦場の先頭にあるのではなく、なぜか後方におかれるのです。 兵隊たちは、歩兵銃すら必要分がなく、二人にひとつ渡されて、「一人がやられたらもう一人が銃を使って撃て」という命令を受けるくらい、不利で無茶な戦いです。そのうち、ドイツ軍の砲火でソ連軍将兵がばたばた倒れます。自然と、将兵たちの退却が始まります。そして、後退する将兵たちに向かって、自軍の後方から、味方へ向けて機関銃が浴びせられます。指揮官が叫びます。「退却するな。退却するものは、脱走兵と見なしてその場で銃殺。」 ※映画についての説明・感想は クイズの答えは、自軍に銃殺されたソ連軍将兵の数が13,500人です。これは全犠牲者の2.8%に当たります。 スターリングラードの戦いそのものを説明します。 ![]() ドイツのヒトラーは、その著書『我が闘争』の中でも、ドイツ民族の繁栄のためには、ウクライナの穀倉地帯をはじめとして、ソ連の資源を支配することが不可欠と述べており、早くから社会主義国ソ連を侵略することを公言していました。 ところが、ヒトラーは先に、イギリス・フランスとの戦いを進める戦略を実行し、そのため、敵と公言してはばからなかったソ連と、1939年8月に独ソ不可侵条約を締結します。 その後すぐに隣国ポーランドを侵略し、第二次世界大戦が始まります。 しかし、やはりヒトラーは、ソ連の主要地帯の占領をあきらめたりはしていませんでした。1941年6月、ドイツは不可侵条約を一方的に無視し、独ソ国境を破って進撃を開始します。 この時のソ連の指導者が、ヨシフ・スターリンです。 彼はロシア革命の立て役者レーニンの死後権力を握りますが、特に1934年からはいわゆる「大粛正」を行って、反革命分子の殲滅の名の下に、自分への反対者・ライバルを大量に処刑し、権力を不動のものにしていました。この5年間ほどに処刑された人数は、一般市民の含めて、70万とも100万とも言われています。 その結果、ソ連軍の内部も、高級指揮官を粛正されて、弱体化しました。独ソ不可侵条約は、スターリンにとっても、ソ連軍再建のための時間稼ぎに必要でした。 1941年段階でソ連には、まだドイツと戦う準備はなく、スターリンは独ソ戦の火蓋が切られるまで、ドイルは攻めてこないと信じようとしていました。 このため、独ソ戦開戦当初は、各地でドイツ軍の連戦連勝となり、その年の暮れには、ドイツ軍はモスクワに迫ります。また、古都レニングラード(いまのサンクトペテルブルク)は、41年9月から44年1月まで900日間ドイツ軍に包囲されます。 1942年になって、すでに前年ウクライナを手中に収めていたドイツは、ロシア南部の最重要都市スターリングラード(現在はボルゴグラード)に迫ります。かの有名な大河ボルガ川に面したこの都市は、スターリン自身の名前を冠した都市であり、またカスピ海西岸の資源地帯を押さえる意味でも、ソ連にとっては、絶対に失ってはならない都市でした。 1942年7月、スターリングラード攻防戦が始まります。 ここでも、当初はドイツ軍が優勢で、ソ連軍は、ボルガ川の次第に追いつめられます。ところが、短期決戦を逸したドイツ軍に対してねばり強く防戦したソ連軍は、次第に補給も整いはじめます。11月には、市内を占領しているドイツ軍を逆包囲する作戦を敢行。最低気温は零下50度という酷寒の地での戦いに、ついにドイツ軍は43年1月に降伏します。 独ソ戦開戦直後、スターリンは、初戦での敗北に危機感を持ち、1941年8月16日、峻厳な命令を発します。 「捕虜になった将兵は祖国の裏切り者と見なし、その家族は逮捕し、国家の保護と援助を停止する。脱走者や投降者は見つけ次第、その場で銃殺せよ。」 スターリングラードのみならず、この命令は各戦場で厳しく実施されました。 ところが、この時、こともあろうに、スターリンの長男ヤコフ砲兵中尉が、ドイツ軍の捕虜となっていました。 スターリンは、「捕虜となった赤軍(ソ連軍)兵士には裏切り者しかいない。私にはヤコフという息子はいない。」と発言。それを捕虜収容所で伝え聞いたヤコフは、1943年収容所内で見張りの兵隊の指示に逆らって、射殺されました。 ソ連という政治体制と「独裁者スターリン」は、多くの犠牲者を踏み越えて、戦後の超大国へと「発展」していきます。 ※斉藤 勉『スターリン秘録』(2001年産経新聞社) |
| 1002 外国で日本人が書いたこの文書は何? |
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外交官杉原千畝の業績については、すでに、いろいろなところでも述べられていますが、ここでは略年表を示しながら、若干の解説を付けます。 問題の事件は、1940年の夏に起きました。 ナチスドイツは、1939年9月に隣国ポーランドを侵略し、イギリス・フランス等諸国がドツに宣戦して、第二次世界大戦が勃発しました。 ポーランドはドイツとソ連とによって分割され、その他の東欧諸国にも過酷な運命が迫ります。 1940年4月、ドイツは西部戦線で電撃戦を開始、デンマーク・オランダ・フランスをあっという間に降伏させます。 一方バルト三国のうちのエストニアとラトビアにソ連軍が進駐。7月21日にはリトアニアも含めてバルト三国のソビエト連邦加盟が決定されます。続く8月、リトアニアはソ連に併合されます。 そんな中で、すでに1935年からユダヤ人の市民権剥奪等の迫害を強めていたドイツは、占領地のポーランドでもユダヤ人迫害を強めていました。当時ポーランドには350万人のユダヤ人がおり、その数はヨーロッパ最多でした。ドイツは、ユダヤ人を強制収容所へ収容し、労働力として家畜のように働かせるつもりでした。(このあと、1942年1月には、ユダヤ人絶滅計画(ホロコースト)が決定され、アウシュビッツなどでの大量虐殺が始まります。) このため、多数のユダヤ人が、ポーランドからの脱出を図ります。 彼らの一部は、リトアニアとの国境に近いポーランド領ビリニュスに難を逃れてきました。普通ならここでリトアニアへ入るためには、リトアニアのビザが必要なのですが、ここでひとつの奇跡が起きます。 ポーランドを分割占領していたソ連が、ビリニュスをリトアニアへ割譲してしまうのです。この結果、同地にいたおよそ1万5000人のユダヤ人が自動的にリトアニア領へ編入されました。 当初、リトアニアの地は、ユダヤ人にとってとりあえず安全な土地をと思われていました。 ところが、ソ連は、リトアニアを含むバルト三国の併合を着々と進めていきました。これはとりもなおさず、ソ連が対ドイツ戦争を予想していること、逆にいえば、リトアニアもやがてドイツの侵略を受けることが予想されました。 このため、ビリニュスのユダヤ人は、リトアニアはあくまで通過点として、最終の安住の地を目指さねばなりませんでした。 彼らの救いの手を差し出したのがカウナスのオランダ領事館でした。この時本国がドイツによって占領されていた在カウナスのオランダ領事館は、ユダヤ人を救うために、カリブ海に浮かぶオランダ植民地キュラソー島への渡航ビザを発行したのです。この時点でソ連政府は、日本の通過ビザを持つものにはソ連入国を認めていましたから、彼らは日本の通過ビザさえあれば、シベリア鉄道経由で、悪夢のヨーロッパを脱出することが出来る状態にあったのです。 この結果、1940年7月18日の朝、杉原は領事館の窓外にビザ発給を求める何百人ものユダヤ人群衆を見ることになるのです。 通過ビザ発給枚数が自分の権限を越えて数千枚にもなるだろうことをを察した杉原は、日本の外務省に許可を求める電報を打ちます。しかし、2度に及ぶ請訓電報に対する外務省の回答はいずれも発給拒否を命じるものでした。 外務官僚としての立場と、自分の頼りにして領事館を取り巻いているユダヤ人群衆をすくうという人道的立場との間で、杉原は苦悩しました。そして、ついに、発給を決断するのです。 彼が、リトアニア領事館を引き払うまでの1ヶ月あまりの間に発給した日本通過ビザの枚数は、2139枚。一家族3人として、およそ6000人のユダヤ人がシベリア鉄道を経由して日本へ渡り、そして、さらにアメリカなどへ
杉原は、無許可の通過ビザ大量発給については、直接には責められるわけではなく、その後もヨーロッパ各地の都市で外交官として活躍しています。そして、戦後、収容されていたソ連からの帰国後の1947年、外務省を免官となります。 杉原や家族がこのリトアニア事件について沈黙を守っていたこともあって、彼の生前においては、彼の人道的業績はあまり広くは知られませんでした。その死後、妻幸子による『六千人の命のビザ』の出版等を通して、1990年代になってようやくその意義が認識されていきました。 1993年3月には、国会において、その功績が改めて確認されています。当時の首相宮沢喜一氏は、「杉原福領事(領事代理)の行った判断と行為は、当時のナチスによるユダヤ人の迫害といういわば極限的な局面において人道的かつ勇気あるものであったというふうに考えております。この機会に改めてその判断と功績をたたえたいと思います。」と答えています。(1992年3月13日) 2000年7月30日には、杉原千畝の生誕の地、岐阜県加茂郡八百津町の人道の丘に、杉原千畝記念館が開館しました。 ※杉原千畝記念館 〒505−0301 岐阜県加茂郡八百津町八百津1071 0574−43−2460 ※八百津町役場 ホームページ ※杉原幸子著『六千人の命のビザ新版』(1993年大正出版) ※渡辺勝正著『真相杉原ビザ』(2000年大正出版) |