| 安土桃山時代1 |
| <問題編> クイズは時代の古い順に並んでいます。答えは各問題の |
| 最終更新日 2009年02月22日 ※ |
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| 番号 | 掲載月日 | 問 題 | ||||||
| 405 |
01/10/07 | 鉄砲が伝来した後、日本の鍛冶たちは、苦労を重ねてその製法を修得し、当時の西洋の銃にまさるものを作り上げていきます。ところで、鉄砲の筒の部分(銃身)はどうやって作ったのでしょうか。 |
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| 404 |
01/09/24 | 1549年に日本に来たイエズス会のフランシスコザビエルは、鹿児島・平戸・山口等で2年3ヶ月にわたって布教を行い、多くの信者を作って帰っていきました。彼は本国へ帰る途中、1552年にマカオで病死します。そのあと、遺骸はインドのポルトガル領ゴアに運ばれました。ところが、そのゴアで遺体は「災難」にあいます。熱狂的な彼の崇拝者が、何かをしてしまったのです。次のうちどれでしょうか。 |
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| 403 |
01/04/28 | 右のマークをクリックすると写真が登場します。写真は、韓国で出版されている児童向けの偉人伝の絵本の表紙です。高校の日本史の近世史の部分にも登場するその人物とは誰でしょう。 |
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| 401 |
01/02/25 | 【シリーズ関ヶ原の戦い その1】 |
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| 402 |
01/02/25 |
【シリーズ関ヶ原の戦い その2】
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408 |
09/02/22 |
【シリーズ関ヶ原の戦い その3】
これを読むと、徳川家康は関ヶ原の戦いの勝利によって、「全国支配の実権をにぎ」ったと解釈できます。 |
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| 406 |
01/10/22 | 右の?をクリックしてください。グラフが現れます。これは応仁の乱から島原の乱までの170年間の文書を調査し、戦場でどのような武器で死亡・負傷したかを原因別に統計したものです。一番多いのは、刀・鉄砲・槍・弓矢のうち、何によるダメージでしょう。 |
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| 407 |
03/12/21 | ポルトガル語に、biombo、bonzoという単語があります。この意味は何でしょうか。ヒント、もともとは日本語です。 |
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| 401 柿を落とした立政寺住職のいいわけは何でしょう。 |
【シリーズ関ヶ原の戦い その1】
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慶長5年(1600年)の動き(旧暦表記) |
402 石田三成の催促に吉川・毛利軍は何と言い訳したでしょう。 |
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【シリーズ関ヶ原の戦い その2】 |
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明治になって、日本陸軍の教官としてドイツ帝国からやってきたあるドイツ将校は、途中の行動を教えられずにこの配置図だけ見て、「この戦いは西軍が勝利したに違いない」と答えたそうです。緑の西軍は、東軍を包み込むように位置しており、西軍方武将がすべて、その名前の通り戦っていたら、石田三成の勝利は、揺るぎないものだったでしょう。 |
| 403 韓国の絵本の主人公は誰でしょう。 |
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豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、朝鮮水軍を率いて大活躍した、李舜臣です。
高校で最も多く採用されている日本史Bの教科書である石井進・笠原一男・児玉幸太・笹山晴生著『詳説日本史』(1999年山川出版)では、「釜山に上陸した日本軍は、新兵器の鉄砲の威力などによってまもなく漢城(現、ソウル)をおとしいれ、さらに平壌(現、ピョンヤン)も占領した。しかし、李舜臣の率いる朝鮮水軍の活躍や朝鮮義兵の抵抗、明の援軍により補給路をたたれ、しだいに戦局は不利になった。」(P159)と書かれています。 |
404 ザビエルの遺体が受けた災難とは何でしょう。 |
遺骸は、ゴアの聖ポーロ聖堂に運ばれ、棺から出されて、三日間一般参観が許されました。1554年3月16日から18日のことです。この時事件が発生しました。参観者の一人、イサベラ・ド・カロンという貴婦人が、遺骸の足に接吻したと思うと、いきなり右足の薬指と小指を噛みきってそのまま口に含んで逃げ去ったのです。 |
405 鉄砲の筒の部分(銃身)の作り方は? |
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教科書等でご存じのように、鉄砲(火縄銃)は、1543年8月25日に種子島に流れ着いた中国船に乗っていたポルトガル人によって伝えられました。実射によってその威力を確認した領主の種子島時堯は、大金を積んで鉄砲2挺を買い取り、家臣の篠川小四郎に火薬の調合方法を学ばせた。
誤った答えとしては、鉄を鋳型に流し込むとか、鉄の棒に穴を空けるとかが出てきます。 鉄砲の作り方が、刀を作ることを仕事とする鍛冶師のいるところに伝わっていくと言うところが重要なヒントです。鋳物を作る鋳物師のいるところへは伝わりません。鋳物では、銃身が火薬の爆発にたえるほどの強度を保つことはできません。 鉄を筒状に巻いていくという製法が生徒には理解しづらいので、授業の時はいつもトイレットペーパーの芯を持っていきます。この芯は、幅数センチの厚紙を螺旋状に巻いて作ってあるので、解体して見せれば、一目瞭然です。 ※津本陽・所荘吉「戦国火縄銃無頼」鈴木健二編『NHK歴史への招待28』(1984年日本放送出版協会) 鉄砲は弓矢に比べれば、格段に威力のある飛び道具でした。しかし、決定的な欠点は、当時の先込め(銃の先=銃口から火薬と玉を入れる)の火縄銃では、次弾発射まで早くとも30秒近くかかってしまうことです。弓矢なら、当時の手慣れた武士ならほんの数秒で次を射ることができます。 授業では、この次弾発射まで30秒を、きわめてリアルに説明しなければなりません。もし相手が、騎馬隊であるとして、初弾をはずしたらどうなるか? この時代の鉄砲の有効最大射程距離は200メートル。しかし、50メートルを超すと命中精度は急速に悪くなります。実戦では敵を100メートルぐらいまで引きつけて発射しなければなりません。 そこで、不幸に初弾がはずれたとしましょう。次弾発射までの間に、騎馬隊はどれだけ進んでくるのでしょうか。いつか、プロ野球の盗塁王の選手と、馬とを競争させるテレビ番組がありましたが、野球の塁間のような短い距離ならともかく、100メートル・200メートルともなれば、人間より馬が早いのは当然です。30秒もあれば、騎馬隊はゆうに150メートルは進軍します。つまり、初弾をはずしたら、何の障害もない平地であれば、次弾を発射する前に、馬に蹴散らされてしまうことになるのです。 織田信長と徳川家康の連合軍が、武田勝頼の騎馬隊を破ったとして有名な長篠の戦いの説明は、これだけのリアリティがあってこそ面白いものになります。長篠の合戦図屏風に見られる馬防柵の意味も理解できるでしょう。 もっとも、この時の武田勝頼は、自軍の騎馬隊の威力を過信して、僅か6000の兵力で、およそ15000(つまり3倍)の敵が馬防柵を作って待ちかまえる所へ無理矢理にせめさせました。したがって、織田・徳川の勝利は、信長の鉄砲を用いた作戦に、武田勝頼が無謀にも挑んでしまったところにありました。 ※熱田公著『集英社版日本の歴史J 天下統一』(1992年集英社) |
406 戦場における傷の原因は何か? |
鈴木眞哉氏が、1467年の応仁の乱から1637年の島原の乱までの170 |