| 原始〜古墳時代7 |
<解説編>
| 115 イネが日本に伝播したのはいつ頃か?照葉樹林文化とは何か? |
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| 【縄文と弥生、日本の地域差を考えるシリーズ4】 この問題は、クイズ112・113・114 の続きです。 まだそちらをご覧になっていない方は、問題へ戻って、そちらを先にご覧ください。
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しかし、岡山県の総社市の南溝手遺跡からは、縄文時代後期(縄文時代6時代区分の後から2つ目)の終わりころ(今から3000年ほど前)と推定される、モミの圧迫痕(土器を作る時に、まだが柔らかい段階でイネのモミが粘土に押しつけられて、それがそのまま土器として焼かれて残ったもの)がある土器が見つかりました。 上記の教科書の記述では、水田稲作農業の開始を、紀元前5世紀としています。ということは、今から2500年ほど前という勘定になります。 南溝手遺跡は、3000年ほど前の遺跡です。ここからモミの圧痕がでたということは、イネの栽培が、またまた500年遡ってしまいます。 さらに、同じ教科書の縄文時代の記述が問題です。次のように書いてあります。
さて、一見、栽培開始時期がいくつもあるかのような、この「縄文時代コメ問題」。一体どう考えたらいいのでしょうか? |
正解、紀元前5世紀前後に伝わってきたのは、あくまで、水田稲作農業です。 縄文時代の後期やそれ以前に伝来したと見られるコメは、たとえそれが日本で栽培されたものであったとしても、あくまで、ムギやアワやヒエと同じように、雑穀の1つとして、畑で栽培されたと考えられています。 そして、その雑穀としてのコメの栽培の伝播を可能としたものが、東アジアの中央から西日本に連なっている照葉樹林文化です。 縄文時代、西日本には常緑広葉樹林(照葉樹林)が広がり、東日本には落葉広葉樹林が広がり、このそれぞれの森の植生を基盤として、西の照葉樹林文化、東のナラ林文化が形成され、東西の特色が明確になっていたことは、すでに、クイズ113で説明しました。(樹種等の詳細も記述してあります。 その、西日本に照葉樹林文化が広がっていたことに、このモミ圧迫痕を解く鍵があります。 ここで、もう一度、照葉樹林文化の確認です。 照葉樹林というのは、アジア大陸のネパールからインドのアッサム、ミャンマ・ラオス・タイ・ベトナムの北部、中国の雲南、長江中・下流域をへて朝鮮半島南部、西日本にかけて広がる樹林帯です。 その文化中心は、雲南を中心とする東亜半月弧です。 中尾佐助氏が、『栽培植物と農耕の起源』(岩波書店)を発刊し、「照葉樹林文化」を提唱したのは、1966年のことです。 このような広大な地域にまたがる共通の文化の存在を森の生態系を基礎として区分するという発想は、それまでの世界のどの学者もなしえなかった快挙でした。 |
| 上記の日本の東西樹林の違いは、中尾佐助の「照葉樹林文化」を発展させた、佐々木高明の「ナラ林文化と照葉樹林文化」説が反映されています。 これによれば、縄文中期以降、東日本の植生は、ブナ・ナラ・トチなどの落葉広葉樹林が中心となり、西日本は、カシ・シイ・クス・ツバキなどの常緑広葉樹林が中心となりました。(常緑広葉樹は、葉が厚く、表面に光沢があるため、照葉樹林という別名があります。) 照葉樹林文化については、中国の雲南を中心として、西はインドのアッサム地方から東は長江南部地域にまたがる「東亜半月弧」と呼ばれるエリアがあり、これが日本も含めたこの文化のルーツであるとされています。 「東亜半月弧」に関係する事項は、次の所にもあります。
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| 照葉樹林文化発祥の地、東亜半月弧。 |
私が住んでいる岐阜市は、上図の東西樹林相の図から見ても明らかですが、西の照葉樹林帯と東のナラ林帯(落葉広葉樹林)の境界に当たります。 岐阜市の象徴、金華山にもそのことが現れています。 |
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上の「東西日本の樹林相の相違」を見ても明らかなように、私が住んでいる岐阜県の美濃地方の平野部は、落葉広葉樹林帯と常緑広葉樹林帯の両勢力の境目に当たる地域です。 左の写真は、岐阜市のシンボル金華山と岐阜城です。(河岸のホテルは十八楼、その下の川は長良川で、赤い屋根の鵜飼い見物の屋形船が浮かんでいます。) 金華山は、湿気の多い谷筋はは照葉樹が多く、乾燥している尾根筋は、落葉樹が多くなっています。さらに、針葉樹も適度に混ざっており、3つの樹林が混在する緑豊かな山です。(撮影日 06/05/21 都ホテルの前から) |
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同じく、別の角度からの春の金華山です。 濃い緑は針葉樹林、薄い緑は落葉広葉樹林、そして黄色い緑が黄金色の花を咲かせつつある照葉樹林のツブラジイです。湿気の多い谷筋に照葉樹林が多いことが分かります。 (撮影日 07/05/12 大縄場大橋の上から) |
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冬の金華山。 上の写真より少し西側から撮影しています。 写真中の白の直下の峰には、紅葉した樹木はあまり見られません。 反対に展望台の下の峰の半分は紅葉した樹木です。 照葉樹林と落葉広葉樹林の分布がよく分かります。 (撮影日 06/12/10 忠節橋の北川岸から) |
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上と同じく冬の金華山の頂上から中腹にかけて。 展望台から下の峰には紅葉した落葉広葉樹林がたくさん見られます。 夕暮れ時のため、赤いコントラストが強調されています。 (撮影日 06/12/15 本町から) ※注 撮影した2006年は、秋の冷え込みがあいまいで、通常なら11月に紅葉する金華山の木々も、12月になってもまだ落葉していませんでした。 |
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| わが家の近くの小丘陵の照葉樹林(岐阜市と本巣市の境の舟木山)。 左は初夏、5月の写真で、ツブラジイが花を咲かせ、小山全体が黄金色に輝いています。写真手前は刈り取り前の小麦畑です。(撮影日 2005/05/14) 右は、冬。混在している落葉樹が葉を落としているため山全体のボリュームは小さくなっていますが、ツブラジイの葉は、常緑樹にふさわしく青々と茂っています。(撮影日 2005/02/06) |
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答えが決まったら、黒板をクリックしてください。正解が現れます。(黒板一枚分、一度に全部現れます)
上と同じです。黒板をクリックしてください。正解が現れます。 特色11は、ちょっと難しいのでヒントを出します。穀物のひとつです。漢字2文字です。祝い事にはつきものです。 2005年の角川映画「妖怪大戦争」では、この穀物の一粒が、邪悪な妖怪の野望を打ち砕きました。
再び同じです。黒板をクリックしてください。正解が現れます。
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| 秋の長良川の河川敷に咲く、ヒガンバナ(曼珠沙華)。(撮影日 03/10/05) これも、照葉樹林文化の1つです。 ヒガンバナの根っこには、澱粉が含まれていて、縄文時代人はそれを食用にしたと推定だれています。ただし、根っこには、猛毒アルカロイドのリコリンが含まれていて、完全に毒抜きしないと血を吐いて命を落とすこともあったといわれています。(実験はしていません。(--;)) アルカロイド自体は水溶性なので、すり下ろして何度も水にさらせば取り除くことができ、あとには純粋な澱粉が沈殿します。この粉をよく水を切って握り、餅のようにして焼いて味噌や醤油をつけて食べたと考えられます。 奈良県吉野の十津川村では、江戸時代から明治にかけて、ヒガンバナは貧しい人たちの秋の主要食物のひとつだったと記録に残っているそうです。 |
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| 長良川の鵜飼い(撮影日 06/07/28) これも、照葉樹林文化の1つです。今では、岐阜市の数少ない貴重な観光資源の1つです。 |
照葉樹林文化地域では、イネは、雑穀の1つとして、畑作で「栽培」されていました。今流に表現すれば、陸稲(おかぼ)です。 縄文時代の日本にも、そういう形で伝わってきたと考えられます。 これが、上記の「水田や稲に関する新しい発見」表の岡山県総社市の縄文後期のモミ圧痕の正体です。しかし、こういうモミ圧痕があったからといって、縄文時代の後期にすでに、「イネの栽培」が広くおこなわれていたというのは間違いです。 このイネも含めた雑穀の栽培は、縄文時代の食料の主役とはなっていませんでした。これは、クイズ113で説明した、組織蛋白質(コラーゲン)の分析により明らかです。縄文時代は、あくまで、木の実が食料の主役でした。 コメは脇役のたくさんある食料のひとつで、継続的に栽培されたかどうかもわかりません。 やはり、日本にイネが本格的に伝わるのは、現段階では、紀元前5世紀前後の縄文時代晩期ということになります。 では、雑穀としてのイネは、何の意味もなかったのでしょうか? そうではありません。 下の2枚の地図をご覧ください。 左図はは、縄文時代晩期の二つの文化圏、西:突帯文土器文化圏と東:亀ヶ岡土器文化圏のエリアを示したものです。 一方、右図は、弥生時代がはじまって、100年ほどのうちに、水稲耕作が広まった地域、遠賀川式土器文化圏を示したものです。 両者を比較すると何が言えるでしょうか? |
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| 照葉樹林文化を基盤とする突帯文土器文化圏と、遠賀川式土器文化圏はほぼ一致します。 つまり、雑穀の栽培を照葉樹林文化の1つとして経験していた西日本は、水稲農耕について、きわめて、順応性が高く、稲作は、わずか100年で西日本一帯に広がったというわけです。 ちょうど、岐阜県・愛知県あたりは、一時期、新しい稲作文化と古い縄文文化のせめぎ合いがあった地域でした。
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しかし、やがて、弥生文化は東日本にも広がります。 そして、それ以後およそ2000年間、水田稲作農業は日本人の生業の中心となり、経済社会の仕組みはもとより、信仰や文化にも、大きな影響を及ぼすことになります。 せっかくここまで、縄文時代から弥生時代への変化を詳しくたどってきたのですから、その後の日本文化の基層の形成において、縄文文化と弥生文化がどのように結びつき現代につながっているかについて考えたいと思います。 日本文化の基層は、縄文文化か弥生文化かという場合、結論は、両方が結びついて基層を形成しているということになるわけですが、高校の教科書レベルでは、記述は明確ではありません。 歴史の科目「日本史」では縄文文化と弥生文化を学習し、その後の時代の文化の部分では、神道や仏教を初めとして、信仰について学習しますが、信仰の内容そのものは詳しく学習しませんから、縄文文化と弥生文化の精神がそれ以後の日本の精神文化の基層にどのようにつながっていったかは、あいまいです。 一方、公民の科目「倫理」では、精神文化の内容は詳しく学習しますが、こちらは、歴史の教科書ではありませんから、直接には縄文文化とか弥生文化のとかいう記述は登場しません。 ただし、水稲耕作については記述されていますので、結果的に、教科書通り学習すると、弥生文化(水稲農耕儀礼)は強く意識されていても、縄文文化(森の文化)の方はあまり意識されないことになります。 いくつかの倫理の教科書を確かめてみましょう。
弥生時代以来、農耕の歴史は2400年ほど。 それに対して、其れ以前の縄文時代は、9500年以上つづきました。 上記の各教科書が記述している自然条件の中で、縄文時代にまず、基本的な信仰が生まれました。それに弥生文化の水稲耕作の要素が加わって、日本文化の基層というべき考え方がうまれたわけです。
縄文文化の意義について、同じく鳥浜貝塚の花粉分析等にたずさわった国際日本文化研究センターの安田喜憲氏は、もう少し広い視点から、縄文文化の重要性を次のように指摘しています。(行間調整と青赤太字は引用者が施しました。)
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田園の中にある、神社。そして鎮守の森。 これが日本の基層文化の象徴です。 岐阜市中地内、八剣神社(撮影日 06/08/05) 鎮守の森について考える場合の参考文献を二つあげておきます。とても勉強になりました。
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| 2006年の3月、熊野古道に出かけて以来、山と森についてずっと考えてきました。 熊野信仰、修験道、鎮守の森、縄文文化と弥生文化・・・・、日本の基層文化、言い換えれば、日本のアイデンティティを求めて迷い続ける旅ははじまったばかりです。
さて、縄文文化の森と弥生文化の稲については、これで終わりです。 このシリーズの最後、【縄文と弥生、日本の地域差を考えるシリーズ5】 は、縄文時代人と、新しくやってきた渡来系弥生人の形質が、現代人にいかに引き継がれ、それがいかに地方的な差違になっているかについてです。 ※一度問題編に戻ってください。こちらです。 |