| 原始〜古墳時代5 |
<解説編>
| 113 縄文時代、東日本と西日本の格差が生まれた理由は何か。 |
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| 【縄文と弥生、日本の地域差を考えるシリーズ2】 この問題は、クイズ112の続きです。 まだそちらをご覧になっていない方は、問題へ戻って、そちらを先にご覧ください。
問題をもう少し分かりやすく問い直します。
問題112では、縄文時代の東日本と西日本では、東日本が圧倒的に多くの人口を保有していたと推定されていることがわかりました。 東日本に圧倒的に多くの人口いたということは、東日本の方がそれを支える人口維持力が高かった、すなわち、食糧資源が豊かであったことを意味しています。 では、東日本は、どういう点で、食料が豊かだったのでしょうか?次の黒板の空白にあてはまる言葉を考えてください。
正解を示す前に、復習の意味で、もう一度、人口格差が最も著しかった、縄文中期・後期の東西の相違を図示します。 |
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続けて、この答えの解説をします。 これを解説すると言いうことは、縄文時代の人びとの生活について説明することからはじめなければなりません。 その際、ちょっとややこしいことに踏み入らなければなりません。 クイズ112でも指摘しましたが、ここ20年ほどの間に縄文時代に関する研究が非常に進み、最新の教科書には、一昔前とずいぶん違った記述がなされています。 これについて触れる必要があります。
つまり、10年前の教科書になかった新しい要素、具体的に言えば
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最後の氷河期は、今から2万年前に最も寒い時期を迎えましたが、それ以降は、気候は次第に温暖化に向かいます。 今から1万5000年前を過ぎてからは気温の上昇も速まり、約1万1000年前に少し「寒の戻り」があったものの、約1万年前には、現在とほぼ同じ気候となりました。( ちょっと余分な、しかし大事な気温の話です。 最も寒かった2万年前は、日本の気温は平均で現在よりも6、7度を低かったと考えられています。氷河時代というと、何か、地表がすべて雪と氷に覆われていると勘違いされるかもしれませんが、そんなことはないのです。 しかし、気温が6、7度低いと言うことは、日常生活上は大きな違いです。 次は各地の現在の年平均気温と、それを氷河期並に補正したものとの比較の表です。
東京や名古屋が、青森や函館と同じになるというのは、どんな感じでしょう。 実感では、名古屋と函館の気温差は、なんとなくわかりますが、食糧事情ということになると、よくわかりません。 1つ具体例を出して、考える材料としましょう。 1993年といえば、冷夏によって、お米が大凶作となり、ついには、タイ米の輸入とという事態にまでなってしまった年です。 この時、6月〜8月の平均気温は、平年に比べてどのくらい低かったでしょう? また、黒板で考えてみましょう。 ご自分の答えが決まったら、黒板をクリックしてください。
いかがだったでしょう。 平年との違いは、それほど大きくなくても、食糧資源には大きな影響をあたえるということが、少しわかって頂けたと思います。 これについても、授業で生徒諸君に質問すると、「マイナス10度」「マイナス15度」とかいう、”天真爛漫”な答えが多く返ってきて、授業のしがいがあります。
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| なかなか本題へ向かいませんが、もうひとつの気候の話、今度は降雪量です。 上で、約2万年前の氷河時代は、気温は、現在より6、7度低かったといいました。 そうすると、現在の新潟は、年平均気温は13.2度、1月の平均気温は2.1度ですが、氷河時代は、それぞれ、7.2度と−3.9度となり、相当な寒冷地でした。今の日本では、気温的には、北海道中央部の気候となります。 またここで質問です。 気温は今より低いことはわかりました。では、降雪量は、今より多かったでしょうか、少なかったでしょうか? また、黒板です。 ご自分の答えが決まったら、黒板をクリックしてください。
補足しますと、最寒冷期には、海面は今より100m以上低下したと推定され、北海道は宗谷陸橋によって、シベリアと陸続きになり、九州は対馬陸橋によって朝鮮半島と近接していました。 現在の気候で、冬季に日本海側に雪が降ることには、暖流の対馬海流が深くかかわっています。 対馬海流の流入により、日本海の表面温度は、5度から10度に維持されており、その上を渡るシベリア寒気団の風の温度(マイナス20度〜30度)との格差が、猛烈な水分蒸発を促し、その水分が、雪雲となって日本海側の豪雪となるのです。 本題に話を戻します。 氷河時代から現在に近づく時の、日本列島の森林の様子についてです。 氷河時代は、気温は低く、しかも降水量も少ない時代でした。 したがって、生えていた樹木については、その種類が今とは違って、亜寒帯の針葉樹林であることは容易に想像できますが、実は、その茂り方は、平野部のすべてを鬱蒼とした森林が茂っているというのではありませんでした。氷河時代は、大陸的な寒冷・乾燥した気候が支配的でした。 気候が温暖化し、海岸線が上昇し、日本海や海流の様子が今のようになると、日本は海の影響を強く受ける、現在のような海洋性の気候がはじまります。(対馬海流よりは少し遅れますが、氷河期には遙か南方洋上を流れていた黒潮も、縄文時代早期の8500年前から8000年前頃には、北上して日本列島に近いところを流れるようになり、太平洋側からの気候への影響も強まります。) 今の日本のように、四季があって、モンスーンの影響を受け、夏は暑く、冬は日本海側に大雪が降り、降水量もたっぷりあるという気候です。 環境考古学者による花粉分析によれば、今から1万3000年前から、日本海側にナラ林やブナ林が広がっていくそうです。ブナは、世界自然遺産の白神山地を持ち出すまでもなく、日本海の豪雪地帯を代表する樹木です。このブナ林・ナラ林の広がりが、縄文時代の幕開けでした。
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上の引用文にもあるように、気候の温暖化と、樹林相の動きは、徐々に変化していき、結果的に縄文時代の東西の特色となりました。 その変遷を以下に図で示します。 |
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| この時期は、上で説明した最も寒い時期です。現代の樹林相とは似てもにつかない状況となっています。対馬の北と稚内の北は、もっと北方まで陸地となっています。まだ日本列島の形はありません。 | ||
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| 気候が次第に温暖化し、照葉樹林に適した気候帯が西日本の平地を中心に広がってきました。 |
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| 縄文時代中最も気温が高かった時期です。(時代区分はこちらです。 また、縄文海進のため、今より陸地が狭まっています。瀬戸内海、伊勢湾などは今よりずいぶん広いですし、関東平野の奥深く海が入ってきているため、房総半島は、島のようになっています。まるで、「日本沈没」です。 |
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| 現在の気候、樹林帯とほぼ同じとなりました。 |
| 上図のように、時代による変化はありますが、前期以降、東はブナ・ナラ・クリを中心とする落葉広葉樹林が、西は、カシ・シイの常緑広葉樹林(照葉樹林)が広がっていきます。 この中で、ナラ林によって育まれた東のナラ林文化、照葉樹林によって育まれた西の照葉樹林文化という、東西の文化の相違も明白となっていきます。 |
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その説明の前提として、まず、縄文時代人がどういう種類の食べ物を食料源としていたのかを確認しなければなりません。 授業で質問すると、こういう問答が生じる場合が普通です。
貝塚というのは小学生の時にインプットされて誰も知っていますから、そのイメージは強烈です。また、「農耕をはじめる前は、獲物を獲って暮らしていた」というイメージもこれまた強く、これでは、東日本が、貝やシカ・イノシシなどの獲物がたくさんあったという結論になってしまいます。 そうではありません。 昔の人が何を食べていたかを正確に知ることはそう簡単ではありません。 しかし、今日の科学では、文字による記録がない場合でも、それを推定することができます。 下のグラフはその結果です。 |
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この表を見れば、蛋白質に関しては、動物・魚類・貝類から得ている割合は、合計69.2%となります。 しかし、毎日の熱量でいうと、その80%を植物から得ています。 縄文時代は、「狩猟・採集」の経済ですが、その採集の部分が意外と重要な割合であることがわかります。 しかも、その植物というのは、木の実やヤマイモで、アワ・ヒエ・キビなどの雑穀類ではないこともわかっています。 |
| このデータは、「食性分析」というちょっと難しい原理を使って得られたものです。 人間の組織蛋白質(コラーゲン)には、炭素と窒素が含まれていますが、その中には、通常の質量である、炭素=12、窒素=14とは異なる、炭素=13、窒素=15 という質量を持つ同位体も含まれています。 その同位体が含まれる割合は、人によって違います。その違いは、その生き物が摂取する同位体の組成比率によることがわかっています。 この原理を逆に利用して、組織蛋白質の同位体の比率を正確に測定し、一方で人間の食料源となっている動物・植物の同位体の平均の割合を確認し、「どの食料源をどのくらい食べるとどのような同位対比になるか」という観点から計算すると、食料源の割合が求められるというわけです。 上表の資料は、縄文時代後期(今から4000年前)の遺跡である、千葉県の古作貝塚から発見された20体の人骨の組織蛋白質(コラーゲン)を調査・分析して得られた結果です。 |
| つまり、縄文時代人の通常の熱量の供給の主要な部分は、木の実などの森の植物性の食料なのです。 では、東:ナラ林帯は西:照葉樹林帯より、どういう風に、食料となる木の実が多いのでしょうか。サケ・マスの漁獲量とあわせて比較すると、次の表のようになります。 |
東西樹林帯の食料比較
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これは、トチノキ科のトチノキの実です。 どんぐりは、総じて常緑広葉樹林帯より落葉広葉樹林帯の方が豊富ですが、加えて、落葉広葉樹林帯には、利用性が高いトチノミがあります。 ご覧のように、クリのように粒が大きい実で、カロリーも非常に高く、食用にはうってつけです。 ただ、大きな難点があります。 アク抜きをしないと苦くて食べられないのです。アクの強さは、他のどんぐりに比べて最悪です。 しかも苦みの成分が非水溶性のサポニンとアロインですから、単に、水にさらすだけでは、苦みは消えません。 |
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しかし、縄文時代人もなかなかの知恵者です。 灰汁と一緒に煮込むと苦みを取ることができることに気が付くのです。 東日本では前期や中期の遺跡から、トチノミが多く見つかりますから、そのころ以降は、アク抜きの技術に気づいていたと思われます。 さらに、後期になると、木組みのトチ棚を作って効率よくアクを抜くという技術も工夫されました。 左の写真は、京都から滋賀県北西部を通って若狭小浜(福井県西部)にいたる若狭街道(鯖街道)の途中、朽木の売店で購入したトチノミとトチノ餅です。餅は、購入してから20年近くになりますから、かちかちです。(--;) |
2004年版の教科書に、
これらの発掘調査では、遺跡の土壌の花粉分析が、その全体像をえがきだすのに大きな威力を発揮しました。花粉分析というのは、当時の土壌を顕微鏡で分析し、含まれる花粉の割合から樹林相を推定する調査です。 これによると、通常のナラ林帯では、10%以下の割合でしか含まれないクリノキが、遺跡の近くでは60%を越える高い密度で繁茂していた推定できる場合があることが判明しました。そして、1994年から発掘が行われた青森県の三内丸山遺跡では、クリノキの花粉が、全樹木の花粉の90%を占めるという時期もあったと確認されています。遺跡の周りに「クリ畑」があったと言っても過言ではありません。 あの有名な、直径80cmにおよぶ建物の柱の跡も、クリノキの柱でした。 縄文時代人が、何らかの方法で、クリノキをたくさん増やし、その実を食料として確保しようとしていたことが推定できるのです。クリノキは、東日本の高い人口を支えた中心的な食料でした。クリノキの他、クルミやトチノキの花粉が異常に高い比率で存在する遺跡も多く判明しています。 また、マメ類や、エゴマ・ヒョウタンについても、その栽培を推定できる痕跡が発見されています。 多い人口と高い文化レベル、縄文時代は、おもに東日本に広がったナラ林帯を中心とした森の文化だったのです。
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わが家の近くのクリ畑(岐阜市上西郷地内 撮影日 2006/08/05) 三内丸山遺跡の周辺にもこんな景観が広がっていたのだろうか。 夏の撮影ですから、まだ緑色です。秋にまた撮影し直します。 |
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| 北海道の東部にある、標津川(しべつがわ)。 遠くからではわかりませんが、近づくと、遡上するサケの群れが確認できます。 きっと縄文時代には、こんなサケの遡上が東日本の川ではどこでも見られたのでしょう。 (撮影日2002/09/18) 東日本の縄文時代人がサケ・マスによって、食生活が豊かになっていたことを最初に唱えたのは、考古学の大家、山内清男氏です。考古学上明白となっている縄文時代の東日本の優位を説明する格好の理論として「鮭鱒論」と呼ばれ、研究者の支持を得ました。 しかし、大家の説にもかかわらず、 反対を唱える学者も多かったのです。 その根拠は、貝塚などからサケ・マスの骨がほとんど出土しないことでした。これは決定的でした。おかげで、教科書にも登場しませんでした。 しかし、この論争は、環境考古学の成果によって、決着を見ました。
そもそも、サケ・マスの骨が、それとわかるように丸ごと貝塚から発見されることなど期待できるはずもありません。 考古学の裾野が広がり、動物考古学を専門とする学者が登場すると、貝塚や発掘された土器の底の遺物などから、動物の骨をひとつひとつ採集し、それが何の骨かの分析が可能となってきました。 その結果、東北地方の遺跡などから、サケ・マスの脊椎骨や歯と確認される遺物がたくさん見つかり、山内氏の「鮭・鱒論」は根拠があることとなったのです。 遺物の中にある小さな骨のかけらを、ひとつひとつピンセットで集めて分類するという地道な努力が大きな成果につながりました。
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こちらは、縄文時代当初は人口維持力は高くありませんでしたが、その後の日本文化に大きな影響をあたえました。 日本は、森の文化なのでしょうか、稲の文化なのでしょうか? 次の 【縄文と弥生、日本の地域差を考えるシリーズ3】 は、イネの伝来と弥生時代の開始時期についてクイズにします。 ※一度問題編に戻ってください。こちらです。 |