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| 街道を歩く1 |
| 江戸時代の街道を歩いてみました。由緒ある街道の今昔、エピソードです。 |
| もちろん最初は「お江戸日本橋」その1どこ・何故 07/07/22作成 |
| はじめに | このページの先頭へ | |
| 東海道や中山道など、江戸時代の街道を歩くという「趣味」を持っている方は、結構な数いらっしゃいます。本県の高校の先生の中にも、東海道・中山道を完全踏破したという強者がいらっしゃいます。 街道を歩く魅力は何でしょうか。 昔の雰囲気が残っている場合は、それを味わうと言うことも魅力があります。私のような地歴公民科の教師の視点から言うと、伝えられている昔の様子と現代の景観との違い、その変わりぶりというのも大きな興味をそそられます。 特に古い写真や絵が残っている場合は、現代との比較はとても面白いものとなります。 加えて、今の人間が勝手に考えた想像が昔の現実とは大きく違っていることなどもあり、そこには謎解きが含まれている場合もあります。「街道を歩く」ことによって、とにかく、いろいろと興味深いことが発見できそうです。 では、はじめます。 |
| 五街道の起点は日本橋、で、どこにある? | このページの先頭へ | |
| 江戸時代の五街道の起点が、江戸日本橋であることは、みなさんご存じです。 しかし、東京やその周辺在住の方は別として、普通の方はその日本橋がどこにあるかについては、ほとんど正確にはご存じありません。 ためしに、下の地図で、日本橋の位置を示してみてください。 正解は、地図をクリックすると、別の「その2」の地図が現れて、分かるようになっています。 |
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| いかがだったでしょうか? ちなみに、私の家族のうち、妻N(日本史に関しては特別な知識はない)は当然のことながら、長男K(教育学部で社会を学んだ)、3男Y(現在高校3年生、日本史を受験科目にしている)でさえも正解を示すことができませんでした。 妻は、見当違いの場所3カ所を指摘し、息子たちは、日本橋は大きな川にかかる大きな橋というイメージから、隅田川にかかる橋を想定してしまっていました。 |
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| 今も昔も日本橋は、江戸城(現在の皇居)の外堀から隅田川に向かって東流する日本橋川(全長約2km短い川です)にかかる長さ50m程の橋です。 大きな川にかかる大きな橋ではありません。 上の写真は、昭和初期の日本橋です。当時の写真はがきより複写しました。 古いタイプの市電が走っている他は、自動車はほとんど見られません。 |
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| こちらは隅田川にかかる両国橋。(場所は上の地図で確認してください。) 橋長は日本橋の3倍以上の、164.5mもあります。17世紀に半ばに最初にかけられた時は、200m程ありました。 (撮影日 07/05/25 左岸下流から神田川の河口方向を向いて撮影。神田川は、この撮影位置と反対側の右岸上流にあります。 この両国橋の上流から、神田川河口の柳橋を写した写真は、日記「すごいです。長崎大学付属図書館幕末明治期日本古写真DB。」にあります。) |
| 何故、この橋が五街道の起点?開闢当時の江戸の町とは | このページの先頭へ | | ||||||||||||
| それでは、何故日本橋川にかかる日本橋が五街道の起点となったのでしょうか? そもそも徳川家康が関東への領地替えを命じられた際に、この江戸を本拠地に選んだのは、次の理由とされています。(赤文字や行間調整は引用者が施しました。)
では、最初の江戸の町はどんな規模だったのでしょうか?
江戸時代の半ば以降は、江戸の町はどんどん拡大していきます。しかし、家康が引っ越してきた頃の江戸は、武蔵野台地の東端にあった江戸城のとその東の江戸湊・浅草寺門前町を結ぶ極めて限定された町でした。 その後、家康はその江戸の町を積極的に造成・拡大していきます。
下の地図で、江戸湊、浅草寺、道三堀、江戸前島、日比谷入江を確認してください。 青い点線が、埋め立て前の、江戸城東側の海岸線です。 墨田川河口には、低湿地帯が広がっていました。江戸湊の南に舌状に突き出た江戸前島もまだ人家はなく、家康は、道三堀等の運河を開削する一方、江戸前島、さらには日比谷入江も埋め立てして、江戸城の東側に大きな市街地をつくり、武家地や寺社地、そして、商人地をつくっていきました。 |
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| 日本橋 | このページの先頭へ | | ||||
この結果、1603年に架橋された日本橋や、その架橋以後日本橋川と呼ばれることになる短い川(道三堀によって江戸城外堀とつながった2kmあまりの川)の両河岸に広がった町並みは、のちの大江戸、大東京へと発展するこの都市の原点とも言うべき地域でした。
都市江戸への物資を集積・供給する日本橋川界隈は、江戸幕府にとっての生命線となる水上交通と商業の中心地でした。その川にかけられた日本橋を同じく陸上交通の起点ともするという発想は、これまた、ごく自然な発想でした。 一般的には、橋が五街道の起点という知識の方が広まっています。実は、橋だけでなく、その下の水路も日本の中心となっていたのでした。 このあたりの詳しい説明までは、高校の日本史の教科書には書かれていません。 日本史の教科書にも出てくる林子平は、寛政の改革で処罰される対象となった著書『海国兵団』で次のように書いています。 「細かに思えば、江戸の日本橋より、唐、阿蘭陀まで境なしの水路なり」(よくかんがえれば、江戸の日本橋から、中国、オランダまで境なしの水路で結ばれている。だから江戸湾の防備が必要である。) 日本橋は、こういう橋でした。 次の項目では、現在の日本橋を紹介します。 |
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