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| 095 2006年12月 3日(日) 映画「父親たちの星条旗」硫黄島の戦い1 |
| 2006年の終わりを飾る戦争映画といえば、クリント・イーストウッド監督のワーナー・ブラザーズ映画「父親たちの星条旗」です。 すでに11月第一週の公開から約1ヶ月が過ぎてしまい、鑑賞記を書くには遅すぎる気がします。 しかし、この作品の場合は、アメリカ側の視点から見た硫黄島の戦いと日本側から見た硫黄島の戦いの2部作構成となっており、12月第二週から、硫黄島2部作の後編、「硫黄島からの手紙」が公開されます。ここで鑑賞記を書くのは、そういう意味では、いいタイミングかなと思います。(本当は、「色丹島との交流記2006」にこだわっていたから遅れました。(^.^)) この映画のポイントを箇条書きで示します。
わが家の映画「父親たちの星条旗」に対する評価はこうなりました。
次男Yの言うとおりで、この映画を何の予習も無しで見た普通の方は、面白さも、涙も、目から鱗も、何もなかったと思います。しかも、父の回想部分(戦時中のこと)と現代の部分との行き来がわかりにくく、ちょっと難があるように思いました。 原作や、映画自体のテーマは、非常にはっきりしているのですが、アメリカ国内のことが中心で、予備知識がないと、今ひとつです。 |
| そこで、私の出番です。 この映画をじっくり鑑賞するための、真価を発揮させるための、「基本」を説明しましょう。
日本軍は、太平洋戦争開戦前にすでに、第一次大戦直後から国際連盟の委任統治領として事実上支配していたパラオ諸島、トラック諸島、マリアナ諸島(サイパン島など)に基地を有していました。加えて、開戦後さらにマーシャル諸島、ギルバート諸島、ソロモン諸島などを占領し、多くの島嶼に海軍基地や航空隊の基地を設営しました。 これに対して、1942(昭和17)年8月のガダルカナル島上陸によってはじまったアメリカ軍の反撃は、ソロモン諸島、ギルバート諸島、マーシャル諸島と着実に進められ、1944年7月には、日本が絶対国防圏と位置づけていたマリアナ諸島が占領されました。 ただし、アメリカ軍の反抗は、日本軍が支配していたすべての島嶼を奪い返すというものではありませんでした。たとえば、よりハワイに近いウェーキ島や、より南方のラバウルや、トラック島の占領は行いませんでした。米軍は、必要な島嶼だけを占領したのです。この作戦を「飛び石作戦」と言っていました。 しかし、サイパン島やグアム島は占領しなければならない島でした。 これらの島を基地とする戦略爆撃機B29の日本本土爆撃は、日本の息の根を止める決定打と考えられていたからです。 アメリカ軍はグアム島、サイパン島占領後、B29基地建設を進め、4か月後の1944年11月には、B29爆撃機による本土空襲が始まります。 しかし、サイパン島やグアム島から2500km以上を飛行して東京等を空襲するB29にとって、硫黄島は2つの点で脅威となる島でした。 ひとつは、同島の基地の航空機や電波探知機によってB29の出撃が察知されてしまうことや戦闘機の迎撃をうけることであり、もう一つは、この島を中継基地として、サイパン島やグアム島に対する日本軍機の攻撃が行われその被害が相当な数に上ったことです。 さらに、この島を占領すれば、逆に、2つの点で多大な利点がありました。 ひとつは、これまでサイパン島などからは遠距離過ぎて随行できなかったアメリカ軍の戦闘機が、硫黄島から飛び立ってB29爆撃機の護衛することが可能でした。 また、爆撃任務を果たし日本軍機や高射砲によって被害を受けたB29爆撃機の退避地とできることも重要でした。 これは反対に日本側から見れば、どうしても譲れない、簡単に敵の手に渡してはならない島であったことを意味します。 このため、小さな島で、日本本土に近く、それ故に単位面積あたりの日本軍の兵力も防備も、これまで占領を果たした島嶼よりも堅牢であると想像され、その結果、上陸すれば多くのアメリカ軍兵士が犠牲になると予想されたこの島への上陸作戦を、アメリカ軍は敢えて実行したのです。 上陸直前には、上陸アメリカ軍の司令官、アメリカ海兵隊ホーランド・スミス海兵少将は、占領までの日数は5日間、アメリカ将兵の死傷者は、1万5000名を越えると予想していました。 しかし、実際には、占領までの日数は36日間、アメリカ軍の被害も、予想をはるかに上回りました。
この戦いは、太平洋戦争の各戦場の死傷者数に於いて、アメリカ軍のそれが日本軍を上回った唯一の戦いとなりました。(もちろん、死者数だけを比較すれば、日本軍の方がはるかに多い数値となっています。日本軍将兵は、捕虜となった一部の兵士以外は戦死しているからです。) もちろん、参加兵力、火力等から言えば、アメリカ軍が圧倒的優勢であり、アメリカ軍が予想以上の犠牲を被った理由は、日本軍の巧みで、辛抱強い戦闘の遂行にあります。この様子は、第二部「硫黄島からの手紙」に詳しく描かれると思います。 「硫黄島=最大の激戦地」というのが、この映画を理解する最大のポイントです。 |
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| 硫黄島は、面積約22万平方メートルの小さな島です。 最高峰は島最南端の摺鉢山169mで、北部には、100前後の標高を持つ元山台地があります。 日本軍は、摺鉢山と元山台地に陣地を構築して、アメリカ軍を迎え撃つ計画でした。 ※この地図は、以下の参考文献一覧 |
総兵力は、海兵隊の第3・4・5海兵師団6万余です。アメリカ軍は自軍の3分の1以下の日本軍守備隊を5日間で殲滅する計画でした。 第一派として、南海岸の東半分に第4海兵師団が、西半分に第5海兵師団が上陸しました。 ここで、アメリカ軍首脳が予想していなかったことが起きます。 9時からはじまった上陸は、最初は平穏そのもので、最初に砂浜に達した上陸用舟艇は、日本の陣地からはまったく攻撃を受けずに無事上陸できました。映画『プライベートライアン』のノルマンディー上陸の際のシーンとは、まったく異なり、平穏な上陸だったのです。 アメリカ軍の将兵は、期待しました。 「事前の爆撃や砲撃が功を奏して、日本軍は反撃する能力を失っているのではないか。すでに、戦争は終わっているのではないか?」 しかし、アメリカ軍将兵は、この期待が誤りであることにすぐに気づかされます。 浜辺が上陸軍で一杯になった上陸開始から1時間後の午前10時頃、摺鉢山や元山台地及び千鳥飛行場周辺の高台などにある日本軍陣地から、浜辺やそこから上がって内陸へ進みつつあるアメリカ軍将兵に向かって、一斉に銃撃・砲撃が始まりました。浜辺は将兵や機材でごった返しています。人口密度が高いところへのこの攻撃は、大きな効果を発揮しました。アメリカ軍将兵の犠牲者はみるみるうちに増えていきます。 上陸第一日目の死者は566人、負傷者は1755人、これは1日で半年に及んだ全ガダルカナルの戦闘の半分以上の犠牲者が出た勘定でした。 しかし、多大の犠牲を払いつつもアメリカ軍は海岸に橋頭堡を築き、徐々に内陸へ進撃していきます。 映画の主舞台であり、頭上から海岸を狙ってくるいまいましい摺鉢山の日本軍陣地を攻撃する任務は、第5海兵師団第28連隊に与えられていまいした。 第28連隊は、しだいに摺鉢山を包囲し、日本軍陣地を発見すると、海岸に陣取った砲兵隊や海上の海軍艦艇、さらには航空機に連絡して、それに大量の砲弾や爆弾を見舞い、さらに近接して、陣地を爆破したり火炎放射器によって焼き殺したりと言う作戦を地道にくり返し、摺鉢山の日本軍戦力を弱体化していきました。 上陸日+3日の2月22日の夜には、日本軍守備隊の一部は、アメリカ軍の包囲を突破して、北の日本軍守備陣地に合流するための夜間移動を試みました。この大胆な行為は、多くの人員を失ってほんの一部が日本軍陣地にたどり着くという最小限の効果しか生み出しませんでした。 すでに、この段階ですでに摺鉢山は、脅威の存在ではなくなっていました。もちろん、山中の洞窟陣地には、まだ、何百かの日本軍守備兵が残ってはいましたが。 上陸日+4日の2月23日に、第28連隊第2大隊E中隊に、摺鉢山の登頂と頂上への星条旗掲揚の命令が出されました。8時に山麓を出発した部隊は、日本軍守備隊の狙撃を警戒し、洞窟を見つければひとつひとつ手榴弾を放り込みながら慎重に頂上を目指しました。日本軍との接触がないまま、10時少し前に無事頂上に到着し、10時20分に最初の国旗、のちに有名となるシーンの国旗ではなくずいぶん小ぶりの国旗(横135cm、縦70cm)を掲揚しました。 これは、植民地や占領地ではなく、直接日本の国土(東京都下)に掲揚された最初のアメリカ国旗でした。 ここで、あまり知られていないことを4点指摘します。 1つ目は、この摺鉢山頂上での国旗掲揚については、その前日までの戦闘では確かに山をめぐる壮絶なものもありましたが、当日においては、激戦また激戦、砲弾飛び交う中での掲揚ではなかったと言うことです。 戦闘のないきわめて平和な、余裕綽々とした中での掲揚でした。但し、国旗を掲揚してから、日本兵の襲撃があり、掲揚の様子を撮影したカメラマンは手榴弾を除けるために斜面を転がり落ち、カメラが壊れてしまう(写真は無事)という事態もありました。山頂周辺の洞窟には、まだ100名ほどの日本兵が潜んでいたのです。 それにしても、日露戦争の203高地のような、屍累々とした中で旗が揚がったと言うわけではなかったのです。 2つ目は、最初に掲揚された国旗が小ぶりで見栄えが悪いと言うことで、のちに大きな国旗に変えられている点です。つまり、2度の国旗掲揚があったのです。2度目の大きな国旗(横240cm、縦140cm)は、12時頃掲揚されました。 さらに、3つ目の点、これが最大の問題点ですが、この2度の国旗掲揚は2度とも写真に撮影されましたが、ニューヨークタイムズに掲載されて有名になった写真は、2度目の写真だったという点です。(1度目は、ルイス・ロワリー撮影、2度目はジョー・ローゼンサル撮影) そして、摺鉢山頂上一番乗りしたわけでもでもなんでもない、たまたま、その場にいて、2度目の国旗掲揚を行った6人が、写真に撮影されて、「摺鉢山国旗掲揚のヒーロー」になったのです。 4つ目の点は、その後の戦闘の継続と犠牲者の増加に関してです。 この国旗掲揚は、上陸後+4日目の出来事でした。確かに摺鉢山がアメリカの手に渡ったことは戦術上大きなことでした。しかし、日本軍の主力が立てこもる元山台地の攻略はこれから先の戦闘であり、日本軍の抵抗は国旗掲揚から31日後の3月26日まで続きます。もちろん、最初の5日間よりも、これから以後の方がたくさんの犠牲者が出ます。2度目の写真に映った6人のうち3人は、その後の戦闘で戦死しているのです。 ところが、あの写真があまりにも印象的だったため、多くのアメリカ国民は、摺鉢山の星条旗掲揚=硫黄島戦の勝利という誤った認識を持つに至ります。 2度目の掲揚を撮影したジョー・ローゼンサルには、「これはやらせではないか」という批判がなされました。別に彼がやらせたのではなく、この掲揚そのものは、自然に行われたものです。 ただし、その後、この写真が別の価値を持って、一人歩きしていくのです。 |
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著作権の問題で、有名な写真をコピーしてここに掲載することができませんので、かわりに、ワシントン訪問の際に見てきたモニュメントの写真を掲載します。 ポトマック側を挟んで、ワシントンの中心部とは反対の南側に、アーリントン国立墓地があり、その北部に、海兵隊記念碑(通称the Iwo jima Memorial)があります。 1954年に当時の金額で850,000ドルの個人的寄付によってつくられたものです。 人間のの高さは、9.6m、旗竿の頂上までは23.4mもあります。世界で最も背の高いブロンズ像です。 重なって見えにくいですが、6人の兵士が旗を掲揚しています。 ポールの根本の方から、ハーロン・H・ブロック伍長、ジョン・H・ブラッドリー衛生二等兵、フランクリン・R・サウスリー、アイラ・H・ヘイズ一等兵の4人、そして、はっきり姿は見えませんが、ブラッドリーの反対側に、レーン・A・ギャグノン一等兵、サウスリーの反対側に、マイク・ストランク軍曹の2人、合計6人です。 そして、上記の青字の3人は、その後の硫黄島の戦闘で戦死し、赤字の3人が本国に帰還しました。 |
| 1995年2月19日、アメリカ政府は、硫黄島上陸50周年記念式典を挙行しました。 クリントン大統領は、集まった4000人の聴衆(硫黄島に上陸した海兵隊員の生き残り退役将兵1800人を含む)を前に、次のように演説しています。 「この50周年記念式典に当たって、硫黄島や太平洋の小島における犠牲者を価値あるものとするために、我々は今この時に、、我々の自由が決して脅かされることがないような強力な国家を維持していくことを決意しなければならない。」
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硫黄島の砂浜から、沖合の艦船から、多くの人物がこの掲揚を目撃し、旗が揚がると喊声を上げ、艦船は歓呼の汽笛を鳴らしました。 1度目の掲揚の後、たまたま海岸に上陸したホーランド・スミス海兵少将とアメリカ本国からやって来たフォレスタル海軍長官が摺鉢山にひるがえる国旗を目撃しました。 フォレスタルは、 「ホーランド、あの星条旗掲揚は今後500年間の海兵隊の象徴となるだろう。」と言いました。 6人の当人たちにとって、特別なことを考えずに普通に掲揚したこの行為が、本人たちの意志とは裏腹に、国を挙げて注目されるとんでもない大事になっていったのです。 それが起こる伏線として、そもそもこの硫黄島の戦いの報道に付いて捕捉しなければなりません。 「太平洋戦争における報道」という、現代のように衛星放送やTVやコンピュータが発達している時代ではありませんから、さすがのアメリカでも、戦闘の模様が本国に伝わるには時間がかかりました。 海兵隊が最初の上陸を行ったギルバート諸島のタラワ島の戦い(1943年11月)では、最初の新聞報道がなされた時はもう島は占領が完了していました。サイパン島の戦い(1944年7月)の写真が新聞に掲載された時は、すでに戦いが終わって8日目でした。 しかし、1945年初頭の硫黄島上陸段階になると、アメリカの報道網も整備され、電送写真の技術も利用されるなど、より速い報道が可能となっていました。 なんと、硫黄島上陸では、歴史上はじめて、ラジオ・ネットワークが上陸の行われている海岸から生中継をしています。2月19日の各新聞(時差の関係で、上陸日も2月19日、本国での報道も同じ日付)は、「合衆国海兵隊、硫黄島強襲」と言う見出しで、戦闘の様子を伝えました。 それまで、普通のアメリカ国民がまったく知らなかった日本国東京都小笠原郡硫黄島が、「Iwo jima」としてにわかに注目を集めることになったのです。 そして、上述のように、戦闘は、予想以上に過酷な状況であることがほぼリアルタイムでアメリカの家庭に伝えられました。新聞には、上陸当初の海兵隊の犠牲は、「ノルマンディー上陸以上」、「南北戦争のゲティスバーグ以来の激戦」などの見出しが踊ります。 アメリカ国民のフラストレーションが高まっていきます。 まさにその時、撮影から僅か2日後の2月25日の朝刊で、この国旗掲揚の写真が報道されたのです。 そして、アメリカ国民はこの新聞写真を勝利のシンボルとしてとらえ、これに熱狂してしまうのです。 そして、さらに別の思惑が働きます。 アメリカ政府は、このアメリカ国民に感動をもたらす写真とそこに映っている「ヒーロー」たちを、国内における戦意高揚、とりわけ戦時国債購入熱の高揚に利用しようと考えました。 ここで、日本ではあまり知られていない大戦中のアメリカ社会の様子について説明します。 もともと国力がなかった日本が、太平洋戦争開戦後、非常に苦しい経済状況に陥ったことは、日本人には常識です。高校の教科書にもちゃんと記述されています。 それでは、戦時中のアメリカ社会、アメリカ経済はどうだったか? これは、高校の日本史の教科書はもちろん、世界史の教科書にも記述されていません。 なんとなく、経済が豊かなアメリカは、比較的余裕を持って、日本とは比べものにならないくらいたくさんの艦船・飛行機・兵器をなんなく生産できたというイメージがあります。 しかし、実際はそうではありませんでした。 アメリカの戦時経済も、日本とはレベルが違いますが、国民への我慢と経済統制という不自由をともなっていたのです。 アメリカの高校の教科書には、アルミ等の金属やゴムや紙の節約と供出が呼びかけられる運動が起こったことや、男が戦争にかり出された分女性の社会進出が拡大し、女のプロ野球リーグができたことも記述されています。 そして、大事なこととして、財政上、軍事費は経常の支出分以外として扱われており、軍費をまかなうためには国民による戦時国債の購入が必要でした。つまり、国債購入が高いレベルで維持されることが、民主主義と自由主義経済のアメリカであるが故に、日本より以上に切実な問題でした。 戦時国債募集キャンペーンは、1944年末までに6回行われ大きな成果を上げていました。有名人や映画スターなどが街頭キャンペーンやスタジアム等でのショーを行って、庶民や団体や企業などに国債購入を促していたのです。 しかし、1945年5月からはじまる第7回戦時国債募集キャンペーンには、「不人気」となってしまう予兆がありました。ヨーロッパ戦線ではドイツの敗戦が近づいており、国民は全体として長引く戦争に飽き始めていました。 第7回戦時国債募集キャンペーンを成功に導く方法はないか。 ここに、国旗掲揚兵士たちの運命をもてあそぶ要因があったのです。 掲揚後戦死してしまった3人を除く残りの3人は、大統領フランクリン・ルーズベルト命令によって本国への帰還を命じられました。ジョン・ブラッドリー、レイニー・ギャグノン、アイラ・ヘイズです。 3人は、アメリカ各地で開催された、戦意高揚キャンペーンに「ヒーロー」として登場し、「ショー」の主役を演じることになったのです。 ドイツ降伏の翌日、1945年5月9日から全国をめぐる8週間のキャンペーンがはじまりました。ホテルのパーティーで、スタジアムの観客の前で、そして街頭で、彼らは各地で民衆から熱狂的な歓迎を受けました。硫黄島の「ヒーロー」たちの効果は絶大でした。 もちろん、国債も売れに売れました。 当初、国債募集の目標金額は140億ドルでした。ところが、終わってみると、263億ドルもの国債が購入されました。目標の倍近くになったのです。 もちろん、そのころと今とではドルの価値が違いますから比較は難しいですが、政府の予算規模で言うと、これは、1946年会計年度の政府予算額560億ドルの半分程に相当しています。 彼らの活躍によって、財政的には、キャンペーンは大成功に終わりました。 しかし、それとは裏腹に、彼らの苦悩が深まります。 「自分たちは本当にヒーローなのか?」 与えられた仕事と、自分の心のギャップの中で、3人は、苦悶します。この映画「父親たちの星条旗」は、この苦悩と、本当のヒーローは誰なのかという3人の思いがメインのテーマとなっています。 原作の中で、ジェームズ・ブラッドリーは父の苦悩を次のように記述しています。
ここまで予習すれば、映画が面白く見られます。今からでも遅くありません。どうぞ映画館へ。 |
<参考にした文献、ウエブサイト一覧です>
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| 余談です。 私の映画鑑賞にはずっと付き合ってくれている次男Yが、ちょっと心配してくれました。
というわけで、来週は、映画『硫黄島からの手紙』です。 |