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| 094 2006年 9月23日(土) 映画「出口のない海」、人間魚雷回天 |
| 例によって、映画の評価以外に、未来航路にしかできない、兵器「回天」についての解説を追加します。これをご覧になって映画を見ると、ストーリーがよく分かります。 また、参考となる著作物も紹介します。 |
この場合は、通常の戦闘機や爆撃機が必死の特別攻撃に使われるのですが、それ自体は特攻兵器というわけではありません。 しかし、太平洋戦争の後半期、帝国陸海軍は、それ自体が必死の特攻にしか使わない兵器、いわゆる特攻兵器をいくつか製作しました。 その代表的なものは次のとおりです。
回天は、海軍の小型潜水艇部隊に所属していた、黒木博司大尉(のち回天訓練中遭難死亡)と仁科関夫中尉(回天で出撃して戦死)が退勢を挽回するための秘密兵器として海軍上層部に開発を進言し、最終的には兵器としての生産および部隊の発足を天皇が裁可(承認)して誕生しました。 |
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上の写真は、日本が誇った93式酸素魚雷。(広島県呉市の海事科学歴史博物館の展示物。撮影日 06/01/03)
魚雷というのは、どこの国ものでもそうですが、同じ爆発するものでも、爆弾や砲弾とは違って比べものにならないくらい精密な兵器です。何しろ自分で走るものなのです。 走る動力は電池ではありません。 電池では、スピードも遅い上に走れる距離(航続距離)がずっと短くなってしまいます。そこで、基本的には、内部で空気と燃料(石油が主成分)を燃やして、高圧の排気ガスをつくりそれでピストンを動かすという仕組みでした。 日本以外は、燃焼に空気を使っていましたが、日本海軍は一工夫することに成功しました。 空気の代わりに純粋の酸素を使う燃焼方式を開発したのです。これを名付けて酸素魚雷といいます。この魚雷は、二つの点で他国の魚雷より圧倒的に優れたものでした。 第1に、空気には酸素は5分の1しか含まれていませんから他国の魚雷は、燃焼した酸素以外に、空気の残りの成分である窒素が燃焼せずに残ってしまいます。 どんどんできる窒素を魚雷内にためておくわけにはいきません。窒素は、魚雷本体から海へ排出されわけですが、それは泡となって海上へ出て行きます。この泡は魚雷の航跡となり、敵の艦船からは魚雷の進行が容易に発見できるという欠点につながっていました。 しかし、酸素魚雷では、燃焼の結果生じた二酸化炭素は出ますが、窒素は出ません。二酸化炭素は水に溶けてしまいますから、同じく魚雷の外に排出されても、海に溶けて、僅かに白っぽい痕跡が残るだけとなります。 つまり、酸素魚雷の優れた点その1は、敵艦から発見されにくいことでした。 第2は、同じ量の空気と酸素を搭載して燃焼に使うとして、空気と純粋酸素とでは酸素の量が5倍も違います。これは、酸素魚雷の方が、魚雷の燃焼ガスの力と燃焼時間の長さにおいて、圧倒的に優位なことを意味します。 つまり、酸素魚雷の優れた点その2は、空気魚雷に比べてスピードが速く、その航続距離は圧倒的に長いかったことです。 もちろん、どこの国もこんな原理は分かっていました。 しかし、純粋酸素は理科の実験でもお馴染みのようにすぐに爆発する危険な代物でしたから、その利用が技術的にできなかったのです。 日本はその困難さを精密な技術で克服したのです。 |
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| 回天を前から撮影した写真。 人間魚雷回天は、後半分に93式魚雷の推進部分をそのまま使いました。直径は609mm。 前半分には、人間の乗れるように、直径1メートルの太い船体をつなぎ合わせていました。そして、頭の部分には、TNT火薬、1.55トンと信管を装着していました。 93式魚雷は火薬の量が492kgでしたから、その3倍です。 「人間魚雷回天はどんな敵軍艦でも1発で倒す。」とされていました。 |
| 回天を後から撮影した写真。上の写真とも、東京九段の靖国神社遊就館所蔵。(撮影日 03/11/28) |
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| 回天の操縦者(搭乗員)は、この直径1mの部分に、座って状態で操縦しました。 最初の出撃は1944(昭和19)年 |
この間に、10代後半から20代前半の2000名あまりの若者が回天の操縦訓練をおこないました。 この集団は、出身別に大きく3つに分けることができました。 第1は、海軍士官学校、海軍機関学校をでた、正規の士官です。このグループは命令によって回天部隊の各指揮官となりました。 第2は、志願または学徒出陣等によって学業途中で海軍に入り、予備士官を経て士官となった、学徒士官です。海軍入営後、水雷学校等で学習の途中に、「志願」という形をとって回天部隊に配属になりました。 第3は、海軍飛行予科練習生出身でこれまた志願によって回天部隊に配属になった兵です。彼らは、戦争の途中で、大量に必要となった飛行機の操縦者の養成という必要に応えて、10代半ばで飛行予科練習生に志願していました。 第2、第3のグループは、いずれも訓練の途中で、戦争の退勢を挽回する必死の兵器に搭乗する者を志願するかどうかという選択を迫られました。その兵器の名前も、それが必死の人間魚雷であることも、何も分からない状況の中で、「俺たちが頑張らねば」「未知の困難に挑戦する」という若者らしいごく自然な気運に動かされて、志願することになってしまった若者です。 うち、訓練中の殉職者15名、終戦直後の自決者2名、戦死89名の犠牲者を数えました。また、回天を搭載して出撃した潜水艦のうち、8隻が撃沈され、艦長以下乗組員が戦死しました。同時に、回天1基に一人ずつ付いていた整備兵合計35名も犠牲となりました。
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回天の訓練基地の所在地です。 1944年訓練開始時は、山口県の大津島(おおつしま)基地だけでしたが、訓練人員・部隊の拡大にともなって、同県光(ひかり)、平生(ひらお)にも基地が開設されました。 さらに、1945年5月には、大分県大神(おおがみ)にも開設されます。 映画「出口のない海」では、光基地が部隊となっています。 |
| 上の地図は、グーグル・アース(Google Earth home |
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形式的に「志願」したとはいえ、回天に搭乗して死を迎えることについては、それぞれに苦悩がありました。
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しかし、結果的には、そううまくは行きませんでした。 その理由の第1は、回天の操縦性・能力です。 回天は、搭載されている潜水艦から発進して一度洋上に浮上し、潜望鏡(回天の場合は、特眼鏡といいました。)で敵を捜し、もう一度潜水して、敵艦に体当たりしました。この方法は技術的に相当難しいものです。 まず、海の中で、上下左右、思いのままに潜水艇を操ると言うことが、そもそも難しいことです。自動車とはわけが違います。前述の和田少尉の日記にはその難しさが表現されています。 また、現在の水準から考えればこのような兵器には、命中率を高めるための小型レーダーやソナーなど敵艦を捕捉する装置が積載されてしかるべきです。 しかし、もともとそのような技術に後れていた日本は、安上がりに戦果を上げることもあって、回天には何も取り付けませんでした。敵をとらえる手段は、人間の五感のみだったのです。 敵艦が泊地に停泊している場合はそれほどではありませんが、航行中の場合は大変です。潜望鏡で敵艦を眺める短い時間に、敵の速度や自艇との距離を目測し、予想体当たりポイントへ向けて回天を操縦するわけです。 その理由の第2は、アメリカ軍の対応です。 回天の最初の攻撃は、1944年11月20日、中部太平洋のウルシー環礁(アメリカ艦隊の泊地、グァム島の南西約500km。現在のミクロネシア連邦。)に対して行われました。この時は、2隻の潜水艦から5隻の回天が発進し、アメリカ側の資料によって確認されているところでは、艦隊油槽船ミシシネワ(1万1300トン)が攻撃を受けました。同船は、満載していた重油やガソリンが炎上し、20分で沈没しました。 この泊地に対する最初の攻撃はうまくいきましたが、それ以後しばらく続いた泊地攻撃では、次第に大きな戦果が上がりにくくなります。 理由は簡単です。ウルシーでの被害を深刻に受け止めたアメリカ軍は、すぐにすべての泊地に対する警戒を厳重にしました。おりしも、大西洋ではドイツの敗勢が明らかとなっており、ドイツ海軍の潜水艦(Uボート)退治を任務としていた艦船に余裕が生じていました。アメリカはこれを太平洋戦線に投入して、経験に裏打ちされた優れた技術によって、日本の潜水艦に対する攻撃を積極化しました。 そういう状況にもかかわらず、日本軍は、2匹目のドジョウを狙って、泊地攻撃をくり返しました。 その理由の第3は、日本軍の作戦の失敗です。 戦況が悪化すると、日本海軍の各部隊は、しだいに冷静な戦果の確認ができなくなってきていました。たとえば、飛行機の場合、未熟な搭乗員が敵艦の周りに上がった水柱のみを見て「敵艦轟沈」と報告し、それを「これだけの戦力を投入したのだからこれぐらいの戦果はあってしかるべき」と思っている軍の上層部の願いが後押しして、沈めてもいない敵艦を沈んだものと思い込むという結果となってしまいました。 状況や戦果を冷静に認識できなければ次の作戦そのものが失敗につながり、若い命を無駄に散らしてしまうことになります。回天による攻撃についても、そういう面が強く出ました。 1944年12月に出撃した金剛隊と呼ばれる6隻の潜水艦に搭載された24基の回天の場合は次のようでした。
最後に念のために、1944年11月、回天が初攻撃を行った時点の日本海軍の状況を付け加えて説明します。 というのは、普通に考えると、「海軍というのは、潜水艦以外に、戦艦とか航空母艦とか、他の艦隊がいっぱいあって、潜水艦部隊の作戦など、脇役のひとつに過ぎない」と勘違いしてしまうからです。 確かに、1944年10月までなら、他の海上艦船部隊が主役でした。 しかし、10月のレイテ沖海戦によって、最早日本の海軍の水上部隊は存在しなくなり(大和は例外です)、これ以後は、海軍の作戦といえば、回天や震洋(モーターボート)による特別攻撃しかなかったのです。
正確には、震洋は敵が上陸した際の防御兵器です。 ということは、終戦までの半年あまりは、回天による攻撃のみが「敵戦艦や空母を撃滅するという海軍の海軍らしい残された唯一の戦い」だったのです。 しかし、それも、夢にしか過ぎませんでした。 |
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| 回天を搭載した潜水艦は、1944年11月時点で残っていた大型巡洋艦10隻ほどに限られました。 上の模型の伊68号は、ロンドン条約の制限下で1934年に竣工した、ちょっと古いタイプ。この艦は、1942年に改称されて伊168号となり、ミッドウエイ海戦の時には、アメリカ空母ヨークタウンを撃沈する武勲を立てました。回天作戦の開始前の1943年7月に撃沈されましたから、回天戦には加わっていません。 回天を戦地に運んだのは、乙型・丙型と分類されていた、戦争直前から戦争中にかけて建造された潜水艦です。(上の伊68号は1400トン。乙型・丙型は、2100トンクラスで、全長は伊68号105mより4m程大きくなります。) それに比べて、下の、甲板上に回天5基を搭載した伊370号は、えらく短くずんぐりした潜水艦です。 この潜水艦は丁型と呼ばれ、もともとソロモン海域などへ物資を運送する目的で建造された潜水艦です。全部で12隻建造されましたが、生き残ったものも1944年後半には輸送の出番はなくなってしまっていました。ところが、広い甲板が回天を積載するのに適しているというわけで、回天搭載用に改良されました。 回天を搭載して、361号、363号、366号、367号、368号、370号が出陣しました。丁型はそもそも攻撃・戦闘用の潜水艦ではないわけですから、ハンディキャップはあったはずです。 赤字の3隻が戦没、青字の3隻は、それぞれ2度の任務に就き、無事帰還しました。沈没率(3/6)、帰還率は、6/9(.667)です。 回天の全攻撃潜水艦は16隻、、述べ出撃数は32回、うち全喪失数は8隻(沈没率8/16)です。全体の帰還率は、24/32(.750)です。丁型のみならず、任務に就いた潜水艦すべてにとって、過酷な戦いでした。 |
| 国や組織が冷静さを失うと、その暴走によって、多くの人の心と命が踏みにじられます。 人間魚雷回天により、あたら若い命を散らさねばならなかった方々のご冥福を祈ります。 |